昭和後期から平成にかけて無類の強さを誇ったトップボートレーサーの今村豊選手が10月8日に引退会見を行った。
このニュースは競艇ファンにとって衝撃ともなる一方で、過酷な病魔との戦いを貫き通したことから致し方ないものだと納得できる見方もあるだろう。
デビューから常にトップを走りぬき、ライバルたちとの死闘を演じてきたファンを愛するボートレーサー「今村豊選手」の軌跡を振り返ってみよう。
デビュー当時から快進撃を見せた今村豊選手
今村豊選手は山口県出身で、父親の影響でボートレースに出場したいと考えるようになった。
今村豊選手は1981年5月にデビューすると、そのレースでいきなり1着となりファンの度胆を抜いている。
わずか半年でC級からA級になるのだから、まさに新星の天才が誕生したといっても過言ではなかった。
そんな今村豊選手は翌年4月に初優勝を飾ると、5月の笹川賞競走でSGデビューも飾っている。
しかも、当時のSGは年間4レースだったのだが、今村豊選手は2年目の若手なのにすべてのレースで出場を果たしたから驚きである。
さらに10月のSG全日本選手権では初の優出も果たしており、この活躍が認められて同年の最優秀新人賞を受賞している。
当時の競艇界には「艇王」と称された彦坂郁雄選手や「モンスター」と呼ばれた野中和夫選手らがいたのだが、今村豊選手はまさに競艇界のプリンスともいうべき快進撃を遂げていき、ファンの間では新しい時代の幕開けを感じさせていた。
最年少でのSG制覇
今村豊選手は1984年の笹川賞競走で当時の最年少記録となる22歳でのSG制覇を成し遂げている。
これは3年というデビュー最短記録でもあり、今村豊選手がどれほど飛び抜けた存在であるかが見て取れるだろう。
最年少のほうは8年後に後輩の服部幸男選手に破られているが、それでも特筆すべき速さだ。
今村豊選手はその後も第一線として活躍していく。
同時期のライバル西嶋義則や先述の服部幸男、植木道彦、田中信一郎、太田和美、そして松井繁と山崎智也といった強敵が集う中、今村豊選手はSGやG1レースでも着々と結果を残していった。
2004年には40歳を超えてなお生涯獲得賞金が20億円を突破し、年間MVPと最多賞金獲得選手を受賞している。
2007年には2,000勝を達成しており、名実ともに競艇界のレジェンドとして君臨することとなった。
SG7勝のトップレーサー
今村豊選手はSGの全日本競走(ボートレースダービー)を3度制覇しており、1987年と1988年は連覇を成し遂げている。
SG7勝、G1は45勝と競艇界において長年トップクラスで活躍をしており、昭和後期から平成にかけてボートレースのトップレーサーとして存在していた。
令和の時代になってもまだまだ活躍できると思われたが、2020年11月から最低体重制限が52キロとなり、51キロの今村豊選手にとっては体重増が負担になってしまうということで引退を決断している。
一般的にボートレーサーだけでなく、スポーツ選手は減量苦が多いものだが、今村豊選手は増量苦という体質なようで、今後も現役を続けていくことが困難なのだろう。
今村豊選手の伝説
今村豊選手が早くから活躍できたのはそのスタイルにある。
今では当たり前ともなっている全速ターンだが、当時はだれも見向きもしていなかったのに臆することなく導入しており、一気に勝ち星を増やしていったことだ。
全速ターンがボートレーサーに広まるきっかけを作ったのが今村豊選手であり、これは競艇のオフィシャルサイトでも取り上げられている。
コーナーでは速度を落とすのが主流とされていた当時、その風穴を開けたのが今村豊選手である。
記録をもっているだけでなく、新しいことに取り組んだ姿勢は評価され、競艇界の動きをみても、今村豊選手の登場前と後では違うとまでいわれているほどだ。
今村豊選手はずっと一線級で活躍してきたのだが、実は年末の賞金王決定戦(現グランプリ)で優勝したことがない。
賞金額が一番高額となるレースだけにその年の最多賞金獲得者を決める戦いになるのだが、今村豊選手は賞金王決定戦で勝ったためしがないのだ。
SGやG1を何度も制覇しているので不思議といわれているのだが、なぜか運がなかったとしか言わざるを得ない。
グランプリを取っていないのに生涯獲得賞金が歴代2位
また、今村豊選手はメニエール病に悩まされており、一時期戦列を離れている。
後述するが、トップレーサーにとって難病指定となる病気は過酷な問題ともいえる。
しかし、今村豊選手はその期間があったとしても生涯獲得賞金が29億円を超えており、これは2020年10月現在でも松井繁選手に次ぐ歴代2位の記録となっている。
松井繁選手はグランプリを3度制覇しており、一度も最多賞金レースを勝っておらず、病魔と闘っていた今村豊選手が生涯2位の獲得賞金になるということは、それだけ多くのレースで結果を残してきたからともいえる。
今村豊選手は引退会見でグランプリを取りたかったと語っているが、その中でもチャンスはいくらでもあったとも述べている。
やはり運がなかったといえるだろう。
ただ、もしもグランプリを制覇していたら、生涯獲得賞金では松井繁選手を抑えていたかもしれない。
今村豊選手はそう感じさせるだけの成績を残してきたからともいえるだろう。
今村豊選手のスロー戦法
競艇はインが有利であることは明白だ。もちろん今村豊選手も例外ではない。
スタートが速い選手なのでインに入ったら全速ターンで後方をぶっちぎることもしばしばあった。
ところが、今村豊選手は6コースに入ったときも強かったことがいえる。
通常外枠はスタートから飛ばしてコーナーに入るが、今村豊選手はスロースタートを切るので、となりの5コースがかなり焦ってしまう。
通常は外から先に行かれるので内を見るだけでいいのに、今村豊選手がスローなので右も見なくてはならなくなる。
この一瞬が命取りとなり、今村豊選手がいっきにまくって先手を取ろうとするのだ。
全速ターンもそうだが、従来の当たり前とされた習慣を討ち破ってしまうことも今村豊選手の強さの秘訣といえるかもしれない。
今村豊選手の人間性
今村豊選手は後輩のボートレーサーからも信頼が厚いことで有名だ。
マスコミにも紳士な対応をするので好印象を与えている。
引退会見でも39年間の競艇人生で貫き通したことについて、「人にぶつかっていかないというのを最後まで全うしたこと」を挙げていた。
勝つために手段を選ばないということはせず、正々堂々というスタイルで勝負に挑んでいたのがファンの胸を熱くさせてくれる。
後輩たちの威圧的な態度をとらず、温厚的に接したことが弟子の白井英治選手らに「この人に付いていこう」という気持ちにさせるのだろう。
後輩からも信頼されており、練習熱心でデビューしてから練習量はだれにも負けていないという自負があるほどだ。
ファンにも愛されているのが今村豊選手だ。
デビューに合せて引退レースも山口に舞台を置き、これまで長年支えてくれたファンに恩返しをしているのが今村豊選手らしいといえるだろう。
驕れることなく練習を重ねる努力の人
やはり長年続けてこれたのも真面目に練習に取り組んだことが功を奏したといえるだろう。
通常はこれだけ何十年も現役を続けていたら、どこかでA1級から転落してもおかしくはない。
しかし、今村豊選手は一度も降格することなく、ずっとA1級でレースに乗り続けたのだから化け物だ。
天才と若いときに称されても驕れることなく精進してきたからこそ、これだけ長現役を全うできるといえるはずだ。
先述したスロー戦法もごちゃついたイン争いが苦手であり、自分の気質に合わないとしている。
その分アウト側からインに切れ込み、まくって勝つほうがスッキリするとまでいわしめているほどだ。
ただ争いごとが苦手なだけではレースに勝つことはできない。
自分ならどう勝てるかを追求し、研究を重ねたからこそ高い勝率や賞金を獲得できたものといえるだろう。
また、妻は元ボートレーサーの庄島真知子選手だ。
美人でレースセンスもよく、剛腕がウリの女性ボートレーサーだった。
同じ環境を過ごしてきただけあってか、引退を相談されたときはただ「はい」と返事しただけという。
過酷な戦いを知っているだけに、あえて何もいわなかったことが「お疲れ様でした」という敬意を込めたものに感じてしまうものだ。
レースを休まざるを得なかったメニエール病
芸能人にも発症者がいることで認知度も上がっているメニエール病。
厚労省が特定疾患にしている難病であり、確定的な原因がよく分かっておらず、長期化しやすい病気でもある。
一般的に症状には2通りの時期があり、それぞれ発作期と間けつ期という。
前者の発作期は難聴やめまいが強くなり、突発的に怒るので日常生活にも支障をきたしてしまうのだ。
後者の間けつ期は強いめまいなどの自覚症状はないものの、ふわふわするような感じが不定期に起る。
片側だけだった難聴も長期化するにつれて逆側の聴力に影響を及ぼし、結果的に両方が難聴となってしまうこともある。
エンジン音や波の音など、空気の変動する音を聞きづらいことはトップレーサーにとって大きなハンデとなるほか、後方からまくってくるボートの音も聞き取りにくくなるのはターンのときにも接触の可能性もあって恐怖といえる。
また、難聴のような症状は精神的にも辛く、めまいや吐き気なども引き起こし、心身がリラックスすることがあまりないことがいえる。
トップレーサーとはいえ、今村豊選手も「レース中に突発的な症状が何かあったらどうしよう」と考えてもおかしくはない。
就寝前にも考えごとが募れば余計に不安になり、自律神経が乱れて、めまいや吐き気を引き起こしてしまうものだ。
そのような環境の中でファンの期待にも応えなくてはならないという気持ちは今村豊選手も十分に苦しめたであろう。
一時戦列を離れたことは至極当然ともいえる。
名勝負となった1984年の笹川賞競走
今村豊選手を語る上で外せないのが初SGを制覇した1984年の笹川賞競走だ。
最終戦で2号艇となった今村豊選手はイン取りで先輩3選手がゴチャ着く中、我関せずに6コースを陣取る。ここから全速ターンで1コーナーでいいポジションを取り、バックストレッチで先頭に立つと、2コーナーで2番手へ。
一時は速度が付き過ぎたので大きく外へ振られることがあるものの、全速ターンを全開にして先頭に立つと後続をちぎって優勝を決めた。
まだ22歳という若者が颯爽とアウトからまくって重鎮たちを差し切る姿は、まさに天性の才能の持ち主でニューヒーロー誕生の瞬間でもあった。
今村豊選手の成績
優勝したSGタイトル一覧
・笹川賞競走…1984年
・全日本選手権競走…1987年、1988年、1990年
・モーターボート記念競走…1992年
・総理大臣杯競走…2004年
・モーターボート記念競走…2010年
なお、G1競走優勝回数は48回(プレミアムG1を含む)となっている。
実働39年5か月で出走回数 8,207回、優勝回数 142回となっている。1着 2,880回なので勝率は35%と高いことがわかる。
舟券を購入するときには単で買っても損はしないようにできるボートレーサーだ。
今村豊選手は生涯フライング 59回で出遅れが 3回のみ。
生涯獲得賞金は2,941,446,172円と単独2位となっている。なお、1位は松井繁選手である。
今村豊選手の初出走は1981年5月のボートレース徳山で行われ、初優勝は翌 1982年4月のボートレース蒲郡。
同年5月の笹川賞で初SG出場となっている。
また、この笹川賞では1984年10月に初優勝を飾っている。
SG初優勝は当時の最短記録となる22歳で達成した。
さらに今村豊選手はSG優出が 47回でG1では優出 182回と多くの優秀な成績を残してきた。
表彰は最優秀新人賞…1982年、最優秀選手が2004年、最多賞金獲得選手も同年に受賞。
78期連続A1級というのは驚異的な数字でもあり、今後到達するボートレーサーがでてくるのか見ものといえる。
まとめ
いかがだったろうか。今村豊選手は競艇界に颯爽とデビューしてこれまで数々の記録を残し、全速ターンなど新たな風を巻き起こしている。
そんな今村豊選手はSGでも結果を残してきたのに年末大一番のグランプリでは優勝することができないでいた。
難病指定のメニエール病に悩まされて一時期はレースに乗らなくなったこともあったが、今村豊選手は復帰して生涯獲得賞金が29億円を超えて歴代2位にまでなっている。
さまざまなことを言い訳にせず、真摯な対応でマスコミやファンからも人気のあった今村豊選手は、まさに競艇界のレジェンドとしてこれからも語り継がれていくことだろう。
フネログ事務局
最新記事 by フネログ事務局 (全て見る)
- “MUGEN”は、無料情報だけでも稼げて、信頼性が高い情報を提供できる優良サイトだ! - 2024年11月27日
- “競艇RUSH”は、サポーポート充実、的中率も期待できる優良サイトだ! - 2024年11月12日
- “競艇MAISON(メゾン)”は、捏造で作り上げた信頼性の欠片もない詐欺サイトだ! - 2024年10月25日